出エジプト記2章

2:1 さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。

2:2 彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。

 このレビ人は、モーセの父と母です。母は、ヨケベデで、彼女は、信仰の人です。モーセを隠したのは、信仰によることがヘブル人への手紙に記されています。彼女は、その子がかわいいのを見ました。「かわいい」は、神の目に適っているという意味です。彼女は、外面的な美しさを見ていたのではなく、信仰により、生まれた子が神の目に適っていることを知ったからです。

 ヘブル人への手紙では、このことをしたのは「両親」と記されています。ヨケベデがこのことをしたこととして記されているのは、彼女は単に夫に服従してそれをなしたのではないことを明らかにするためです。しかし、単独でしたのではありません。夫に従うべき妻の立場にあって、信仰によってこのことをしたのです。夫のアムラムも信仰によって行動した人です。夫の信仰は、神によって認められた優れた信仰です。主がモーセ現れた時、「わたしはあなたの父祖の神(正しくは、父祖と訳されている語は、父の単数形。あなたの父の神の意。)、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と名乗られました。

ヘブル

11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。

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2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。

 それ以上隠し切れなくなった時、かごに入れて葦の茂みに置きました。

 このかごは、ノアの方舟の方舟と同じ語で、この二つに関してだけ用いられています。神が、水の中でノアとその家族を守られたことを信じてのことです。彼らは、方舟の中に入れたのです。

2:4 その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。

 その子の姉は、ミリヤムです。彼女は、その子がどうなるかと思って離れたところに立っていました。しかし、父と母は、見に行くことはありませんでした。それは、彼らの信仰によったことです。彼らは、全能者に委ねました。その子が神の目に適った者で、神が用いられる器であるならば、神が助け出されます。

 ミリヤムは、非常に良い働きに用いられます。しかし、父母の信仰は、彼女に勝るものです。全てを神に委ねました。見に行くこともありませんでした。

2:5 すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。

2:6 それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」

 ファラオの娘は、男の子を見つけかわいそうに思いました。ヘブル人の子であると分かりましたが、かわいそうに思ったのです。主は、モーセを安全に完全な守りのうちに成長させるためにファラオの娘を動かしたのです。両親の信仰に応えたことでもありましたが、これ以上ない完全な守りをだれが予想したでしょうか。

2:7 その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」

2:8 ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。

2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

 姉は、優れた機転の利く子です。彼女は、実の母を乳母として紹介しました。母は、賃金をもらって育てることができたのです。それは、モーセの教育のためには非常に大切なことでした。この世の何ものにも代えて、主を知ることが必要であるからです。

2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。

 モーセは、王女の子となり、名をモーセとつけられました。その名は、彼がイスラエルを引き出すことをすでに示したものでした。初めから神の計画のうちにあったのです。

2:11 こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。

2:12 彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。

 モーセには、同胞を顧みる心が起こり、自分の手によって、神がイスラエルを救い出すと考えていました。それで、彼は、ヘブル人を打っていたエジプト人を打ち殺し、砂に埋めたのです。

使徒

7:22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。

7:23 モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。

7:25 モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

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2:13 次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。

2:14 彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。

 次の日は、二人のヘブル人が争っているのを見ました。彼が救い出そうとした者たちが争うことを放置しておけませんでした。彼が仲裁しようとした時、モーセがエジプト人を打ち殺したことを口にしました。モーセは、恐れました。彼が正しく行なっていれば、恐れる必要はなかったのです。しかし、彼が勝手にエジプト人を打ち、殺すことは許されていないことです。彼は、良い志しを持ちましたが、まだ、神の時ではありませんでした。その方法も間違っていました。

 良い志し、良い考えが必ずしも神の御心に適っているとは限りません。

2:15 ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。

 ファラオは、モーセを殺そうとしました。単に人殺しということだけでなく、彼がイスラエルの先導者になって、ヘブル人がファラオに背くようになればエジプトにとって損失になります。彼は、すでにそのようなことを行動に現したのです。放置しておくことはできません。

 モーセは、逃れ、ミディアンの地に行きました。

2:16 さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。

 ミディアンの族長に七人の娘がいました。彼が祭司としての役割を担うのであれば、「祭司」と訳してもよいですが、祭司であることの説明は一切ありません。

・「祭司」→祭司。首長。族長。取り仕切る人。

2:17 そのとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がって、娘たちを助けてやり、羊の群れに水を飲ませた。

 羊飼いたちが彼女たちを追い払ったので、助けてあげました。

2:18 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうして今日はこんなに早く帰って来たのか。」

2:19 娘たちは答えた。「一人のエジプト人が、私たちを羊飼いたちの手から助けてくれました。そのうえ、その人は私たちのために水汲みまでして、羊の群れに飲ませてくれました。」

2:20 父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」

 娘たちが父レウエルに事情を話した時、父は、呼んで来るように言いました。

2:21 モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。

 モーセは、この人のところに住むことに心を決めました。レウエルには、息子がいませんでした。娘だけでは、羊飼いたちから悪い仕打ちを受けることになります。レウエルにとっても都合の良いことでした。ツィポラを妻として与えました。

2:22 彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。

 彼女は、男の子を産みました。その名は、寄留者を意味します。モーセは、その所を自分の止まるべきところとは考えていないことがわかります。

2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。

 イスラエルの子らは、重労働にうめき、泣き叫んでいました。神は、それを聞かれました。

2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

 神は、それを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えておられたのです。このとき、思い出されたわけではありません。

・「思い出された」→「(認識できるように)印をつける」、すなわち「覚えておく」。

2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

 神は、イスラエルの子らをご覧になられ、御心に留められたのです。イスラエルの子らにとっては、事が起こるまで、何も神は答えてくださらないように感じたかもしれませんが、事が起こる以前に神は御心に留めておられるのです。